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 このページでは、当会会報や月刊誌『正論』(産經新聞社)において紙面の都合上掲載できなかった話題など、当会代表・中村粲の書き下ろし原稿を独占掲載してまいります。本コラムについての御意見や御要望などは、お気軽に akira@showashi.org までお寄せ下さい。

昭和史研究所會報 第100号(平成17年8月10日付)
時局論評
会報100号発行に当り
歴史に対する政府の怠慢を叱る
東京裁判は首相の一言で破棄できる

昭和史研究所代表
中村 粲

 早くもと云ふべきか、漸くにしてと云ふべきか、『昭和史研究所會報』も第100号を迎へた。平成8年の創刊以来を振返り、遥けくも来つるものかなの感を禁じ得ない。
 中韓など諸国に云はれる儘に謝罪することで能事終れりとし、近現代史の真実について自らの責任で調査検証する意思の欠落した我が政府の対外対応を見るにつけ、これを放置すれば中韓等の意の儘に捩ぢ曲げられた歴史だけが内外に喧伝され、また後世に残ることになるとの強い危惧の念が本会報発刊の主たる動機であつた。
 そこで戦中戦前を外地や戦場で送つた体験のある人々から、日本悪玉史観への反証的事実を実体験として語る手記を広く収集し、紹介することを本会報の基本趣旨としたのであつた。慰安婦問題、南京事件等々に関連ある戦場体験が寄せられ、適宜選択して掲載してきた。中には余りに分量が尨大であつたり、或は余りに断片的すぎて整理が困難なために割愛せざるを得なかつた原稿や資料も少くない。ファイルしたものの失念し、数年後に再発見して掲載した手記もある。その時に、御当人が既に故人であると知つて千悔万悔、臍を噛んだこともある。
 事実、戦争体験者は日を逐ひ月を逐ひ、年を逐ふごとに高齢化して手記を残す気力も萎へ、やがて鬼籍に入るのが残念ながら此の世の定めである。当然、寄せられる手記の類も時の経過と共に少くなり、個人の力で歴史の事実を後世に残すことの至難の業であることを痛感せずには居られない。
 何度も書くが、歴史の調査は国家事業として政府が行ふべき仕事である。中国や韓国の反日教育や反日記念館建設は全て政府が率先推進してゐるではないか。我が政府のこの点に関する無為無策と比べる時、歴史問題で我方が常に圧倒される理由も分らうと云ふものだ。これは無為や怠惰では済まされぬ。国の歴史を軽視することは民族の命脈を断つに等しく、国家国民に対するこれ以上の背信はあるまい。

靖國参拝で主権国家の意地示せ

 それにつけても来(きた)る815日、小泉首相は靖國神社に参拝するのかどうか、巷間あれこれの憶測を呼んでゐる。筆者は原則論としては、靖國参拝は815日に拘泥する必要はないと考へる。英霊に対する感謝と追悼の誠を捧げるには、むしろ春秋の例大祭が相応しいのかも知れない。
 だがこれは原則論である。小泉首相には、どんなことがあつても815日に靖國神社に参拝すると公約した手前があり、その公約は果さねば国民を騙したことにならう。
 その上、支那が815日参拝に対して内政干渉的言辞を弄するのであれば、尚更815日に参拝して支那の下風には断じて立たぬといふ意地を内外に示すことが主権国家の面目でもあらう。
 所謂「A級戦犯」合祀の問題にしても、東京裁判史観を否認すれば一挙に解決することだ。サンフランシスコ講和条約を破棄するのかとの反論があるかも知れない。
 慥かに講和条約第11条は東京裁判で有罪とされた人達の処遇について規定してゐるが、講和条約発効後、我国が上規定を遵守履行したことは周知の通りである。即ち我国は上条項の実体的規定は誠実に履行してきたのであり、何人(なんびと)の指弾を受ける謂れもない。だが国際条約には実体的部分の他に解釈的部分があり、東京裁判に関する認識と評価は正にこの解釈的部分に属すると云へる。そして国際条約に於ける解釈的部分について如何なる見解や態度を取るかは主権国家たる各当事国の裁量に委ねられてゐると考へられるのであつて、まして条約締結当時とは諸々の事情が変化したことを考へれば、所謂「事情変更なき限り」の原則によつて締結当時の約定に必ずしも拘束されないのが国際法の通念である。
 再説するが、我国は講和条約第11条の実体部分は誠実に履行した。解釈部分たる東京裁判の評価については独自の見解を表明する自由が主権国家としてある筈である。それは極端に云へば首相の独り言あるいは呟きでいい。「東京裁判史観は日本としては同意出来ない」と―。その一言には学者評論家の千言万語に優る重みがある。何故なら、それによつて日本と日本人は東京裁判の呪縛から完全に自由になるからである。小泉首相にその一言を洩らす勇気はないか。
(平17724

 

昭和史研究所會報 第56号(平成13年12月10日付)
時局論評
大東亜戦争開戦60周年に思ふ
明朗アジアを建設した日本
――あの戦争が残した「正の遺産」を考へるべき秋(とき)――

獨協大学教授
昭和史研究所代表
中村 粲

 「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋に於て米英軍と戦闘状態に入れり」――学校への出掛けにこのニュースを聞いたあの日から、丁度60年目を迎へた。満洲事変勃発からでは70周年といふ大きな節目に当る。大東亜戦争は昭和16年12月8日に始つたのであるが、それに先立つ支那事変以来の戦争をも含む名称とされた。これだけの長い時間が経過してゐながら、日本人は未だにこの大東亜戦争を正しく評価し得ず、戦後の東京裁判による日本断罪史観の呪縛から脱することが出来ないでゐることは、今年我々が経験した教科書採択や首相の國神社参拝をめぐる様々な問題を回顧すれば十分であらう。

東亜を救つた明治日本

 一体、大東亜戦争を極頂点とする近代日本の対外行動一切を侵略的と断罪するのが隣国の中韓両国の主張であり、この歴史的といふよりは政治的な主張に対してきつぱり「否」と反駁する声は殆ど我国の中からは聞かれないのが実情だ。だが、大東亜戦争開戦60年といふ大きな区切りの機にこそ、近代日本の戦争の意味を再検討してみる必要があると考へる。
 19世紀後半以後、東亜に対する最初の脅威はロシア帝国の南侵政策であつた。而してロシアの南侵を誘発したのは清国の衰頽と朝鮮の弱体であつたことは異論があるまい。義和事件が発生した時、クロパトキンは「満洲はどうしてもブハラのやうに(保護化)する必要がある」とウィッテに語つてゐる。やがてその言葉通り全満洲を制圧し、一旦は朝鮮半島にまで及んだその勢力を長春以北にまで撃退したのは、日露戦争に於ける日本の勝利による。もし日本がロシアに敗れてゐたならば、満洲は第二のブハラになり、朝鮮はアフガニスタンと化したであらう。更に黄河以北も容易にロシアの支配下に入つたに違ひない。明治日本は実に日露戦争に勝つことにより、東亜全局を救つたのである。

満洲建国の意義を思ふ

 しかし、日本の力によつてロシアの手から救ひ出された満洲を清国は放置し、秩序なき荒廃の地となりゆくに任せた。清朝が革命で倒れ、中華民国の時代に入つても満洲は軍閥が支配する半未開の無主の地に等しかつた。その間この地に蟠踞した張作霖は関内に進出して勢力を張り、支那の国民革命に対峙して日本にも反抗する姿勢に転じ、やがて日本軍人に爆殺されるや、その後を継いだ張学良は易幟を断行して国民党勢力を満洲に導入して満洲の排日を激成せしめた。満洲事変と満洲建国はその結果として生起した。成程、事変は他愛ない「謀略」と武力によつて起され、建設された満洲国が日系官吏に動かされ、関東軍の「内面指導」を受けたのは事実だが、揺籃期の新生国家が指導誘掖を受けることは決して珍しいことではない。それよりも、二千年間民族争覇の地として兵争の絶えなかつた満洲に初めて民族協和を理念とした秩序ある法治国家の誕生した歴史的意味を深思すべきであらう。それは我が日本あつて初めて成し得た偉業と云つて過言ではない。かのアフガニスタンの惨状と比べる時、思ひ半ばに過ぎるものがあるではないか。

日本が残した正の遺産

 1920年以後、ロシアの脅威は領土的なものから思想的なもの、即ち赤化工作の脅威に変質した。支那事変はコミンテルンの使嗾を受けた中国共産主義運動の結果であり、それ故に支那事変は防共戦としての性格の濃いものであつた。その意味を理解せぬ米国との戦ひが大東亜戦争なのであつた。東亜の赤化は日本の敗北を待つて実現した。もし日本の防共努力なかりせば、もつと早い時期に東亜は共産主義者の手中に落ちてゐたに違ひない。日本がアジアで唯独り、防共戦を戦つた歴史を我々は誇るべきである。而もその大東亜戦争の結果、アジア全域の民族独立が達成された事実を思へば、大東亜戦争の歴史的意義は自づから明らかではないか。遠く遡れば日清戦争以来、我が日本の対外行動がアジアの安定と進歩のために残した遺産は測り知れぬ程大きい。苦痛と犠牲を伴ひつつも、日本はアジアの歴史を一歩また一歩と押し進めてきた。それは中国や朝鮮やロシアに到底望み得ぬ歴史的事業なのであつた。戦争を含む近代日本の対外行動に「負」の面のみを見ようとするのは歴史の正しい理解に寄与するものではない。今こそ近代日本と大東亜戦争の残した「正の遺産」を見直すべき秋(とき)と信ずる。
(平13・11・29)

 

昭和史研究所會報 第55号(平成13年11月10日付)
時局論評
敢へて小泉総理に直言す――
謝罪の前に事実を糺(ただ)せ
不可解な中国・韓国での「お詫び」

獨協大学教授
昭和史研究所代表
中村 粲

蘆溝橋の責任は日本にない

 珍しく気概のある首相として大いに期待を寄せた小泉純一郎氏ではあつたが、結局はこの人も従来の謝罪外交を克服することは出来ず、むしろそれを一層定着せしめた観さへあるのは洵に遺憾と云ふ他ない。八月十五日に断行すると繰返し公言してゐた靖國神社参拝を中韓両国の圧力に屈して十三日に変更したのみならず、その折に発表した首相談話に村山談話を上回る自虐表現を盛込んだことは、小泉首相が積極的な謝罪外交推進者であることを初めて自らの言葉で明言したものであつた。
 その首相は十月八日、中国訪問中に北京郊外の蘆溝橋と抗日記念館を訪ねた後、中国の人々に対する「心からのお詫び」を表明したのである。が、この「お詫び」は甚しく見当違ひであり、間違つてゐることを指摘し、首相に猛省を促したい。
 蘆溝橋事件は中国共産党が長年に亙つて画策し、惹き起した事件で我方にとつては寝耳に水の出来事なのであつた。昭和十二年七月七日夜十時半頃、最初の射撃を受けてから翌朝五時半まで三回の銃撃があつたにも拘らず、我方が一発の応射もしなかつた事実だけでも我が部隊に戦争意思のなかつたことの立派な証明になるではないか。中国側から三度も銃撃されながら、我が現地部隊は七時間に亙つて隠忍自重を堅持したのである。
 この他、現地部隊が鉄兜さへ携行してゐなかつた事実や、軍中央も事件発生後、二度内地師団の派兵を発令しながら、現地停戦協定の履行状況への慎重な判断から二度とも派兵を中止したことも我国の不拡大意思の証左として記憶されるべきである。だが中国側の相次ぐ背信行為の結果、七月二十八日に最後通牒を交付することになるが、それまで実に三週間、不拡大方針を守り通したのであつた。
 そればかりではない。蘆溝橋で日本軍を積極的に攻撃殲滅させる計画を立て、その演習まで実施してゐたのが、誰あらう、中国二十九軍副参謀長・張克侠であつたこと、また秘密共産党員であつた張は中国共産党北方局主任・劉少奇の指示の下に工作していた等の諸事実が、中国側の歴史資料として明記されてゐるのである(詳細は拙著『大東亜戦争への道』参照)。してみれば、蘆溝橋事件発生と拡大の責任が日中何れにあるかについては、今や一点の疑念をさし挟む余地もないと云へる。蘆溝橋訪問は中国側の要望で行はれたさうだが、そのこと自体が日本側の歴史的無知と卑屈を中国側が知り尽した上で完全になめて掛かつてゐることを示している。まして小泉首相の蘆溝橋訪問と「お詫び」を中国側が「評価」したと伝へられ、それがその後の会談をスムーズに進めることにつながつたと首相が満足気に語つたと云ふのであるから、また何をか云はんやである。
 「私は歴史が好きで、蘆溝橋は前から一度来たいと思つてゐた」と首相は語つてゐる。しかしそれにしては蘆溝橋事件の勉強が足りないのではないか。幸ひなことに、事件に関係した軍人軍属は少数ながら健在だ。私はかつて昭和史研究所の事業の一環として、これらの方々から直接話を聞き、テープに収録もした。なぜ歴代政府は謝る前に、これらの体験者を捜し出して歴史的事実の調査をして来なかつたのか。その怠慢と無責任と主体性の無さを叱責する。これらの方々は皆高齢者であり、残された時間は幾ばくもない。だが今なら何とか間に合ふかも知れない。歴史に関心のある小泉首相よ、即刻NHKなどと協力して体験者を対象にした歴史調査に着手されたい。それと同時に、来(きた)る十二月二日開催の「大東亜戦争開戦六十周年記念・歴史セミナー」に是非来聴され、蘆溝橋事件を含め、大東亜戦争についての認識を改められるよう切望する。

外国も称賛した朝鮮の発展

 総理の謝罪は中国に対してだけではなかつた。同月十五日には韓国を訪ね、ソウル西大門刑務所跡を訪れ、「日本の植民地支配が韓国国民に多大の損害と苦痛を与へたことを心から反省し、お詫びする」と謝罪した。オランダ女王がインドネシアを訪問した時、インドネシア側は女王を、昔独立運動家達が投獄された場所に案内して挨拶をさせたであらうか。左様な無礼が予定されていたなら、女王の訪問はあり得なかっただろう。かつての反日運動家が投獄された跡を訪れて献花し謝罪する総理も卑屈なら、そこへ案内する韓国側も無礼千万と申す他ない。
 朝鮮統治初期に独立運動家を弾圧したことも事実、投獄したのもその通りだらう。だが併合した以上、その転覆を企図する独立運動を弾圧することは当然である。それは政治的立場の対立、政治力学上の問題であつて原理的には道義的問題ではない。それは善悪の議論を超えた事柄で、百年近くも経つた今日、それが歴史であつたと云ふ他ない。
 初期の所謂「武断政治」の時期はともかく、一九一九年万歳騒擾事件以後、斎藤実総督の「文化政治」の時期には独立運動のあり方も武力抵抗から朝鮮人自らの教育重視の方向に変化し、一方、我国も「三面一校」など朝鮮人の教育向上を施政の中心課題とするに至つたため、期せずして両者の要望と方針が接近した。その後は独立運動に対しても寛大となり、投獄などの弾圧は殆ど影を潜めたのが実状だ。
 一例を挙げれば、朝鮮独立運動主唱者として上海仮政府樹立当時、外交次長(外務次官に相当)であつた呂運亨(ろうんきょう)は大正八年(一九一九年)十一月来日し、帝国ホテルに滞在して我国政府要路者や吉野作造などの識者と会談を遂げ、また都下各新聞記者を招いて朝鮮独立運動について滔々と抱負を語つている。独立運動の主謀者を逮捕しなかつたことが貴族院で問題になつたが、原敬首相は「呂は独立運動の演説をしたのではなく、ホテルの一室で数名の者と会見したのみ。逮捕すべきものとは簡単に申せない。彼は日本に反対するのは却て不利益と説いてをり、彼の来日は日本に良好な結果をもたらした」と答弁してゐる。以て独立運動に対する我国の寛大な姿勢が窺知できるのであらう。
 また各国の新聞も朝鮮独立運動を支持する論調ではなく、今日の朝鮮に平和と繁栄と利益をもたらせるは日本の努力の結果なりと論じたものが大部分なのであつた。その後、終戦まで二十五年間に亙る朝鮮社会各般の著しい進歩発展の跡を虚心に顧みるならば、小泉総理の挨拶にある「韓国国民に対する多大の損害と苦痛」と云ふ言葉は到底理解することが出来ない。国力も精神も亡滅に瀕してゐた朝鮮に生気を吹き込み、近代化への道を歩ましめたのは日本人の英知と汗であつた。これは決して誇張でも自慢でもなく、例へば満洲事変調査のため来鮮したリットン調査団のマッコイ将軍や、時代は下るが戦後、全羅南道に進駐した米軍主席軍政官リール・W・リーズ少佐などの均しく賛嘆したところであつた。昭和四十年代、朴正熙大統領が提唱したセマウル運動は間違ひなく宇垣総督の実践した農村振興運動に範を取つたものである。京城帝大の韓国発展に対する貢献は愈鎮午氏(城大法文学部第一回生。戦後高麗大学学長。日韓交渉主席代表)など韓国人自身の認める所でもある。のみならず、三十五年間に亙つて我国が朝鮮近代化のための施政改善やインフラ、教育整備に投入した資金、年平均二千万円(当時)もの補充金、終戦時朝鮮に残して没収された二百五十億円(当時)を上回る個人資産を加へれば、我国は韓国に「多大の損害」を与へたどころか、逆に相互の請求額を相殺勘定すればお釣が来る計算にさへなる。小泉総理は一体、如何なる根拠によつて、あのやうな「お詫びと反省」発言をしたのであらうか。一国を代表する政治家の発言としては全く軽率かつ不見識と断ずる他ない(詳細は拙著『「韓国併合」とは何だったのか』を参照されたい)。

総理にとつて靖國神社とは

 十月二十日の日韓首脳会談で金大中大統領は「靖國神社参拝については、内外の人がわだかまりなく平和の祈りを捧げる場について積極的に検討してほしい」と発言し、総理は「年内にも検討会を立上げたい」と答へたと云ふ。
 金大中氏の発言は内政干渉の無礼千万なものだ。総理は斯様な暴言を「それは日本の伝統と国民感情を考慮して当方が決める事柄なので御心配無用に願ひたい」と云つて退けるべきであつた。せめて「お国の独立記念館も内外の人士がわだかまりなく歴史について反省できる場となるやう考へ直して欲しい」と逆ネジを喰はせてやる位の気概が欲しかつた。勇ましい発言で知られる小泉首相だが、この一連の謝罪外交を見ると内弁慶と評されても仕方あるまい。新しい国立戦没者慰霊施設の建設を総理は考へてゐるらしいが、土地と墓地の標識だけあり、遺骨も霊璽簿もなく、歴史的な由緒も感情もない空虚索莫たる施設に誰が参拝するであらうか。「どんな批判があつても参拝する」と総理が公言した靖國神社だが、その靖國神社はこの程度の施設と同等の存在と総理は認識して来たのであらうか。総理の靖國神社についての認識と評価がその程度のものであるならば、あのやうに強く「参拝」に固執することもなかつたのではあるまいか。小泉首相は不可解な御仁と申上げる他ない。

 日本は何故かくも外圧に弱いのか。それは指導者に自己の信念を支へる歴史観なきが故である。そこで総理・閣僚・議員諸卿に望みたいのは一は自ら歴史を勉強すること、二は国家の総力を結集して歴史調査を実施することだ。卿等要路者が無為無関心であるため、昭和史研究所がその仕事を自らに課してきた。そのささやかな成果は『昭和史研究所會報』に発表し、毎号卿等に送呈してきたが、これまで何の反応にも接してゐない。目を通してゐるのか、ゐないのか。或は手許に届いてさへ居らぬのかも知れないと思ふと、実に寂しい限りである。謝罪する前に、一度自らの責任で「蘆溝橋」「南京」「慰安婦」「朝鮮統治」等々の実体を調査されよ。事柄の実否を納得せずして先方の云ふ儘に頭を下げるのは、いやしくも大丈夫のなすべきことではあるまい。今ならば間に合ふ。だが今を逸しては二度と機会は来ないのである。総理の勇断を求む。
(平一三・一〇・二五)

 

評議員会 (平成13年6月23日) 代表挨拶より

 今年を持ちまして、昭和史研究所も、早いもので満5年を迎えました。当研究所は終戦50年の謝罪決議問題の翌年、平成8年に発足しました。これは、謝罪決議反対運動で皆様から頂いた御寄付が残り、皆で協議した時、「これを歴史の検証のために使おうではないか」という私の提案で、平成8年4月に昭和史研究所を発足する事となった訳です。 

 私事になりますが、30年前、昭和45年に朝日新聞を批判する活動を地元の鎌倉で起こし、「日本人の声」というミニコミ紙を、手書きのガリ版で作成。しかも販売していては間に合わない、一番良いのは直接街頭で手渡しする事だと考えて、そういう活動を3年位続けた。当時と現在を振り替えると、マスコミは当時よりももっと悪くなっていると思う。それまでは朝日新聞、毎日、中日、東京の各紙良かった。各社一般に良かった。その後昭和45年から悪くなった。しかし、まだNHKがあるから救いがあると思っていたが、それも駄目になり、昔から節操をかえないのは産経だけになってしまった。

 何故こうなってしまったのか。原因の一つとして、論説委員が、その頃はまだ戦前の生き残りが頑張っていて、愛国心のある人達も少なくなく、毅然としたものがどこかにあった。朝日も、毎日も、中日も、各紙にそういう方々がいた。その人達が引退されてから、すっかり駄目になってしまった。

 マスコミだけでなく、政界、その他あらゆるところが、全部世代交代が原因で駄目になったのだろうと思う。

 最近若い人達と話した中で、今の60代の人達の方が、30代の人よりもファイトを持ってやっている。30代の方が駄目だと言う。全然元気も無く、意欲も無いと言っていた。原因を考えてみると、昔の事を知っている人間は、日本の良い時の記憶がありますから、それを守りたい、回復したいと言う気持を持っている。若い者はそういうものが無い。それは偏向教育を受けていてそういう昔の日本の良い面を知らないものだから、何を守って良いのかわからない。そこから、国旗、国歌の問題、歴史教科書の問題等、全部派生していると思う。戦争を知る方々が居なくなるという事は、恐ろしい事なんです。

 そういう事を考えると、何とか戦争体験のある方の手記とか、体験記とか、少しでも集めて残そうと言う、昭和史研究所の仕事の意義は、それなりに重要だと思っています。しかし、何度も言っているが、これは政府が国家的規模でやらなくては駄目な事なのです。さらに、だんだんそういう方が亡くなったり、お年を召して、しゃべったり、手記を書いたりする意欲も無くなっている。今のうちに、昔を知っている私達のような戦中世代(繋ぎの世代)が元気なうちに昔の事を記録しておかないと、もう取り返しのつかない事になるのではないかと恐れる思いです。

 

第5回 「シドニー五輪の柔道を見て」

 オリンピックではいつも様々な人間模様が展開する。四年に一度の死力を尽しての争の場であるから当然であろう▼シドニー五輪のハイライトはやはり柔道であった。田村亮子や井上康生選手の優勝は期待通り実に鮮やかで、清々しかった。ただ81キロ級の滝本誠選手が、優勝した途端に、試合終了の挨拶を忘れてコーチに駆け寄って抱きついたあの姿には、それまでの態度が落着いていただけに、唖然とさせられた。歓喜のあまり我を忘れたのであろうが、見ていて気恥ずかしかった▼シドニー五輪で後味の悪かったのは云うまでもなく柔道100キロ超級の優勝決定戦だった。篠原信一選手が内股すかしの一本勝ちをしたことは世界中のテレビ視聴者の目が確認した事実であったが、モナハン・クレイグ主審(ニュージーランド)は、驚くべし、ドイエ選手(フランス)の「有効」という逆の判定を出した。結局この誤審が尾を引いて、優勝間違いなしと思われていた篠原選手は優勢負けとなった。山下監督や斉藤コーチが抗議したが、主審のクレイグはいち早く試合場から姿を消してしまい、後の祭▼表彰台で篠原は口惜し涙をこらえていた。いや、口惜し涙は篠原ひとりのものではなく、彼の一本勝ちを自分の目で見ていた全ての人々のものだったはずである。「弱いから負けたんです」と篠原は述べたと云う。その言やよし。武道家の境地ならではの一言だ。それに対して「優勝」したドイエは感想を聞かれて「自分が金を取り、彼が銀を取ったということだ」とうそぶいたそうだ。投げられた時の彼のポカンとした表情を見れば、彼自身、自分の負けたことをよく知っていたことが判る。だからガッツポーズもできなかった(尤も私自身、特に柔道ではガッツポーズをして欲しくないといとは考えているが)▼五輪が終わると彼は「二回連続優勝の栄冠」手に入れ、早々と引退を宣言してしまった。「勝ち逃げ」という言葉があれば、彼に差し上げたい。これでもう篠原と再び戦う心配はなくなった訳なのだろう▼古い話だが、昭和11年ベルリン・オリンピックの棒高跳びで、最後はメドウス(米)と我が西田修平、大江季雄(すえお)三選手の戦いとなった。結局4米35を跳んだメドウスの優勝が決り、2,3位決定戦となったが勝負がつかず夜の10時になる。ここで審判の提議により、仲間同士がこれ以上争うことなく、話合いで決めることになった。「日本の両人はこれ以上争うことを欲せず、多分籤引きで順位を決めるであろう」という場内アナウンスに満場から拍手が起こったと伝えられる。表彰式では米国旗横に二本の日章旗がへんぽんと翻った。四歳年長の西田は「僕はロスで貰っているから」と云って大江の背中を押して2位の台に上げた▼後に二人は銀・銅のメダルをそれぞれ半分に割り、それを継ぎ合わせて一つにし、各自が一つずつ持つことにした。世はこれを友情のメダルとして称えた。因(ちなみ)に大江選手は、筆者が国民学校時代、親しかった同級生の叔父に当り、彼からその話を何度か聞かされたものだ▼ここで筆者はドイエ選手が「本当の勝者は君なのだ」と篠原の肩を叩き、「金・銀のメダルを半分ずつにしてお互いに持つことにしようではないか」と云ったらどうだっただろうかと想像してみる。が、こんな情景は所詮「大いなる幻影」に過ぎないだろう。これからの長い生涯、オリンピック柔道競技の話題が出るたび、ドイエ君は自分の耳をふさぎたくなるような良心の呵責に苦しみ続けるのではあるまいか。

(H12.10.9)

 

第4回 「政府は即刻南京事件の『日本人証言』収集に着手せよ」

 昨年秋、中国で南京大虐殺記念館編「この事実を…」(南京大虐殺生存者証言集)という本が出版された。南京市が二度にわたって調査した1,756人の事件生存者のうち642人の「大虐殺の証言」を集めたもので、南京事件の「第一次史料」として提供すると序文にある。虚実相半ばする「証言集」だが、その嘘に確証を挙げて反論することは不可能だろう。▼また、残念でならないことは、わが国にこれに反論できる日本人体験者の証言集のないことだ。その責任は、謝罪によってその場を糊塗(こと)するだけで、歴史の調査検証の努力を怠ってきた歴代政府にあることは言うまでもない。▼慰安婦問題も同様。朝鮮人元慰安婦などの一方的告発をうのみにし、自らの責任で事実調査をなおざりにしてきた政府や総理府外政審議室の無能と卑屈、無責任が平成5年8月4日の「河野談話」となり、それが英訳までされ、クマラスワミ報告書に「強制連行」は日本政府が承認した事実と主張するために援用され、世界に喧伝(けんでん)される結果となった。憲兵や警察官を含む元朝鮮在住者を捜し出せば、いくらでも裏が取れたのに(私はそれを外政審議室に直接提言した)それをしなかった怠慢の致す所である。▼虚実決め難い中国側の南京大虐殺証言≠フ出現をつとに予見し危惧(きぐ)した私は、9年前から各地の南京戦体験者(民間人も含む)の手記収集と聞き取りをはじめた。そのビデオやテープは数十巻に上る。現在は昭和史研究所という小さな研究機関を設けて続けているが、体験者の高齢化で、取材は時とともに困難になりつつあるのが実情だ。だが今ならば、やや遅きに失した感はあるものの、当時の下士官兵(少数ながら将校も)で80歳を超えてなお健在の人々もおられる。南京市が生存者を捜し出したように、政府は遅滞なく自らの責任で南京戦体験者を調査し、証言を収集すべきである。▼それが南京問題に関するわが方の「第一次史料」となるだろう。このことは国家民族の名誉と尊厳を守るのみならず、真実追及という人間普遍の道理にもかなうことで、何の気兼ねも遠慮も要らぬはずだ。これは昭和史研究所のように資金も情報収集能力も限られた民間の機関の仕事ではなく、本来、政府のなすべき事業ではないか。政治的偏見や外国からの干渉を排することを絶対要件とし、広く研究者やメディアの協力を得て即刻調査を開始することを第二次森内閣に強く求めたい。今を逃したら機会は二度と来ないだろう。

(H12.7.29)

 

第3回 「敵討ちを復活せよ―でたらめな裁判を怒る―」

 山口県光市で昨年4月、Kさんの妻(23)と長女(11ヵ月)が惨殺された事件で死刑を求刑された犯人の少年(19)の判決公判が三月二十二日、山口地裁で開かれ、渡辺了造裁判長は無期懲役を言い渡した。判決理由で裁判長は「極めて冷酷かつ残忍な犯行で社会に与えた衝撃は計り知れないが、犯人は当時18歳4ヵ月で内面が未熟。更正の可能性がないとはいえない」などと述べている▼判決によると、犯人は昨年4月14日、Kさんの妻Y女を強姦する目的でK氏宅に侵入し、抵抗したY女の首を絞めて殺した上で強姦、更に泣き叫ぶ長女を絞殺。二人の遺体を押入れに隠し、Y女の財布を奪って逃走した。検察側は「冷酷かつ残虐極まりない犯行。事件の重大性を考慮すれば極刑を以って臨む他ない」として死刑を求刑していたものである▼率直に申して疑問の多い判決だ。残酷な話だが、事件の第一発見者は夫のK氏だった。そのK氏は憤りを必死で抑え込むようにして、判決への怒りを語る。「判決理由は本当にふざけています。犯人はガムテープ、カッターナイフ、紐まで用意して犯行に及んだ。更に犯行後は自分の指紋のついた物を持出すなどの隠蔽工作も行っている。なのに判決理由では犯人は未熟で計画性もないと言う。死刑判決を出したくないので事件の性格を無理矢理歪めたとしか思えません」と▼また続けてこうも言う。「判決当日、お墓に行ったが、手を合わせることができなかった。とても妻や娘に報告できるような判決ではなかったのです。早く被告を社会に出して欲しい。私が殺します」と▼これを「法治国家の危機」などと危ぶむ人もいる。確かにそうも言えるが、その危機を招いたのは国民の健全な正義感を代弁し、実現することを怠ってきた怠慢で無気力な裁判官の責任である。「法の裁き」を英語で Justice というが、それは「正義」をも意味する。然るに我国では「法の裁き」が「正義」と一致していないのだ▼そもそも法治社会とは私人に代って公権力が国民の正義感を実現するような社会である。個人から復讐の権利を奪った近代社会は、刑法と裁判によってその復讐を代行する責務を負っているのである。それ故、裁判所が被害者の正当な正義感を満足させ得る形で復讐を代行することを怠るならば、再び個人が自らの責任に於て加害者に復讐することを要求する時代になることは必定である▼少年法によればこの事件の犯人は早ければ七年、長くても十数年で仮出獄できるという。実名さえも公表されない。更正の可能性に期待すると判決は云うが、どんな確拠や保証があって左様な判断をしたのであるか。むしろ再犯の可能性の方が大きいのではないか。もし出所して再犯が犯された場合、裁判所はそれに対してどのように責任を取るつもりなのか▼もし米国でこんな判決が下されたなら、法廷で銃弾が飛ぶことだろう。妻と娘を強姦殺害して懲役刑に服している犯人を苦心惨憺刑務所の中まで追及して自分の手で殺害し復讐を遂げた男を描いた米国映画を観たことがある。米国の国民感情は、このような復讐に対して理解を示す傾向がある。正邪の弁別や正義を大切にするからだ▼筆者はKさんの痛憤の気持、口惜しさが十二分に理解できる。もしのこのこ娑婆に出てきた犯人に、Kさんが本当に復讐する決意を決めた暁には、できれば加勢して上げたい気持である。こんなに人を馬鹿にした裁判が続くのなら、江戸時代のように敵討ちを公認する社会になった方がよほど気持がすっきりする。むしろ、そうなって欲しいとさえ思う。但し敵討ちは一回だけに限ることにするのである。

(H12.4.28)

 

第2回 「警察への不信」
 警察の評判が低下している。9年間女性監禁事件で明るみに出た新潟県警の無能と無責任にはただ呆れるばかりだ。犯人の佐藤宣行は、この女性の行方不明事件発生当時、別の少女に対する犯行未遂事件で逮捕され、執行猶予中であったにも拘らず、捜査の対象にもなっていなかったと言う。また女性を発見した保健所員が救出を要請したにも拘らず、警察は出動を断ったと言うのだから、これはもう職務放棄と言うべきだろう▼一言で申せば、警察に己の社会的使命と責務についての自覚が足りないのである。悪を退治して社会の安全と秩序を守ろうという気概が警察官諸公にないのである。悪者を畏怖せしめる威厳もなければ力もないとなれば、街路でも校庭でも、白昼堂々凶悪犯罪が横行するのも不思議はない。事件が発生してから周辺を物々しく警戒する警察官の姿ほど無様で馬鹿馬鹿しく滑稽な見世物はない。あとの祭りとはこのことを言う▼昨今警察官が町を巡回している姿を見かけることがない。署や交番にいるか、パトカーに乗っているのだろう。パトカーは事件発生後に通報を受けて現場にやってくるだけで、犯罪防止には全く役立っていない。犯罪者はパトカーをやり過ごしてから安心して犯行に着手すればよいからだ。犯罪抑止に最も効果的なのは徒歩や自転車での巡回である。だから巡査という名称があるのだが、今は名称のみあって実体はない。深夜でも職務質問されることは絶えてなく、犯罪はやり放題という訳である。近頃の警察官は深夜の巡回を怖がっているのではないか。怖ければ二、三人でチームを組んで回ればいい。第一、そんな弱虫の警察官でどうするのか。腰の警棒や拳銃が泣くだろう▼私の所轄警察は不祥事続きの神奈川県警の大−警察署(今回は実名は伏せる)だが、日常生活上の迷惑事を相談しても頼りないこと夥しい。その上、応対が頗る横柄ときているので不愉快この上もない。過去20年間にわたって大−警察署の無責任、怠慢、無力、空威張りを知るにつけ、自分の平穏な生活と安全は自分の力で守る他ないと考えるようになってきた。警察が頼りにならぬとすれば、自分の平穏と安全は、現行法秩序に顧慮することなく、自分が必要と判断する手段で守り、問題を解決するほか途はないではないか。これまで誰よりも法と秩序を尊重し、警察の仕事への理解と協力では人後に落ちぬと自負してきた私の、これは痛切な実感なのである。

(H12.2.24)

 

年頭拙詠二首
空しくも 流れゆく日か けふもまた わが営みに 悔いは残りて

御民われ 悔いこそなけれ この命 この国のため 燃えて果つるも

代表 中村粲

 

第1回 「東京だョ おっ母さん」
 大晦日に12チャンネル(テレビ東京)「生放送!年忘れにっぽんの歌」を聞く。島倉千代子さんが「東京だョ おっ母さん」を熱唱していたが、驚くと共に嬉しかったのは一、二、三番を全部歌ったことだ。というのはNHKでは必ず二番がカットされるからだ▼なぜかと云えば、二番には「あれが、あれが九段坂/逢ったら泣くでしょ、兄さんも」と靖国神社のことが出てくるのが怪しからんと云うのである。二番をカットした近年の例では平成9年5月13日「歌謡コンサート」、昨年2月16日「作曲家船村徹ヒット曲集」がある▼カットする理由はNHKが反日、反靖国神社だからに尽きよう。だから、あれこれ尤もらしい理由をつけては島倉さんに二番を歌わせないための策略を講じてきた▼最近、島倉さんがそのことをスッパ抜いてしまった。昨年11月28日『産経新聞』掲載「加藤芳郎の甘辛倶楽部」という対談シリーズで、島倉さんは話題が「二番カット」に及んだ時、「船村徹先生の歌謡コンサート(前出)で『東京だョ おっ母さん』がリハーサルでスリーコーラス。やった! NHKでスリーコーラス歌えるって喜んだら、本番前に二番がカット。『時間がない』ということですけれども。戦争でなくした息子さんに会えるとかで、二番を歌ってほしいというお母さん達からの手紙が多いんですよ」と寂しげに述べている▼リハーサルでは歌わせて安心させておき、本番前になってカットとは、何とも汚いやり方ではないか。本番直前では嫌だとも云えない。体よく島倉千代子を騙した訳だ。これが国民から受信料を取る公共放送とは聞いて呆れる▼12チャンネルでスリーコーラスを熱唱する島倉さんに会場から熱い拍手が送られるのを聞いて「これが日本人の素直な気持ちなんだ」と私自身熱いものを感じた。そしてどこの国の放送か分からぬNHKに受信料を支払うことの馬鹿らしさを改めて考えたのである。

(H12.1.11)

 

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